「自転車に乗せられて怖い」―認知症の夜に起きた“意識の嵐”を読み解く
第99回医師国家試験 I問題 第4問(連問)
国試問題にチャレンジ
連問の共通文
次の文を読み,4~6の問いに答えよ。 80歳の女性。昨夜,不穏状態となったため家族に連れられて来院した。 現病歴:7年前ころから物忘れが出現した。最近は食事をしたことを忘れ,自分の部屋が分からなくなることもあった。置き場所を忘れ,「盗まれた」と言うようになった。昨日,自宅の台所で転倒した。痛みのため1日中臥床していたが,夜間,「変なところに連れてこられ自転車に乗せられている。落ちそうで怖い」と大声で叫び,ベッド柵にしがみつくといった言動がみられた。 既往歴:特記すべきことはない。 現症:身長150cm,体重47kg。体温36.8℃。脈拍84/分,整。血圧116/84mmHg。表情はにこやかである。話し方は穏やかだが多弁である。何の目的で来院したのかは理解できていない。昨夜の言動についても覚えていない。それ以外には神経学的な異常を認めない。 検査所見:尿,血液および血液生化学所見に特記すべきことはない。頭部単純CTでびまん性に脳萎縮を認める。
この患者にみられる症候はどれか。2つ選べ。
- a.失見当
- b.せん妄
- c.両価性
- d.自我障害
- e.不定愁訴
対話形式の解説
ドクター
医学生
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ドクターまとめ
緩徐に進行する記憶障害に見当識障害(失見当)と物盗られ妄想を伴い、CTでびまん性脳萎縮を認める高齢者では、Alzheimer型認知症を考えます。そこに急激に発症し、夜間に悪化し、錯覚・幻覚と興奮を伴い、後で覚えていないエピソードが加われば、意識変容を背景とするせん妄と判断できます。高齢・認知症は準備因子、疼痛や臥床は誘発因子であり、外傷の評価と疼痛管理、環境調整が対応の基本で、ベンゾジアゼピン系薬単独の使用は避けます。両価性や自我障害(作為体験)は統合失調症の症候、不定愁訴は心身症などでみられる訴えであり、表現の似た言い回しに惑わされないことが大切です。慢性の経過と急性の変化を分けて捉える視点は、高齢者の精神症状を正しく評価するうえで欠かせません。
解答・解説
正解はa, bです
所見の整理
80歳の女性で、約7年前から物忘れが少しずつ進んでいる。現在では「食事をしたこと自体を忘れる」というエピソード記憶の障害、「自分の部屋が分からない」という場所の見当識障害、物をしまった場所を忘れて「盗まれた」と訴える物盗られ妄想がみられる。神経学的には局所徴候がなく、血液・尿検査にも異常はなく、頭部CTではびまん性の脳萎縮がある。高齢発症で緩徐に進行する記憶障害を中核とし、見当識障害と物盗られ妄想を伴い、局所神経症状を欠くことから、Alzheimer型認知症が最も考えられる。
急性の変化をどうとらえるか
来院のきっかけは前夜の不穏である。台所で転倒し、痛みで終日臥床していた日の夜に「変なところに連れてこられ自転車に乗せられている。落ちそうで怖い」と叫び、ベッド柵にしがみついた。自宅にいるのに別の場所にいると誤認し(見当識障害)、実在しない状況を体験して強い恐怖を示し(錯覚・幻覚)、興奮している(精神運動興奮)。しかも翌日にはその言動を覚えていない(健忘)。これは急激に発症し、夜間に目立ち、意識の変容を背景とする状態であり、せん妄と判断できる。認知症という脳の脆弱性(準備因子)に、転倒後の疼痛・終日臥床・夜間という条件(直接因子・誘発因子)が重なって生じたと考えられる。
設問の考え方
「この患者にみられる症候」を2つ選ぶ問題である。慢性的な経過の中でみられる症候(記憶障害、見当識障害、妄想)と、前夜に急性に加わった症候(せん妄)の両方を拾い上げる。一方、統合失調症に特徴的な症候や、身体表現性の訴えは本例の記載からは読み取れない。
選択肢考察
- ○a. 失見当
失見当(見当識障害)とは、時間・場所・人物など、自分が今置かれている状況を正しく把握できない状態である。本例では日常的に「自分の部屋が分からなくなる」ことがあり、場所の見当識が障害されている。さらに前夜には自宅にいながら「変なところに連れてこられた」と訴えており、せん妄中にも見当識障害が強く表れている。Alzheimer型認知症では記憶障害に続いて、まず時間、次いで場所、進行すると人物の見当識が障害されるのが典型的である。
- ○b. せん妄
せん妄は、軽い意識混濁に錯覚・幻覚・不安・精神運動興奮などが加わった意識変容の一型である。急に発症し、数時間から数日の単位で症状が変動し、夜間に悪化しやすく(夜間せん妄)、回復後にその間の出来事を覚えていないことが多い。本例は転倒・疼痛・終日臥床を契機に、夜間に「自転車に乗せられて落ちそうで怖い」という錯覚・幻覚を伴う体験と、大声で叫び柵にしがみつく興奮が生じ、翌日には覚えていない。この経過はせん妄の特徴にすべて当てはまる。高齢と認知症はせん妄の代表的な準備因子であり、疼痛や身体的ストレスがその引き金になる。
- ×c. 両価性
両価性(アンビバレンス)とは、同一の対象に対して愛と憎しみ、したいとしたくないのように、相反する感情や意志が同時に存在する状態である。Bleulerが統合失調症の基本症状(4つのA:連合弛緩、感情の障害、両価性、自閉)の一つとして挙げたことで知られる。本例にはこのような相反する感情・意志を示す記載はない。
- ×d. 自我障害
自我障害とは、自分の思考や行動が自分自身のものであるという感覚(能動性)や、自分と外界との境界が損なわれる状態である。作為体験(させられ体験:他者に操られていると感じる)、思考吹入、思考奪取、思考伝播などがあり、統合失調症に特徴的である。本例の「自転車に乗せられている」という訴えは、せん妄中に外界の状況を誤認した体験であり、自分の意志や行為が他者に操られているという作為体験ではない。「乗せられている」という言い回しに引きずられないよう注意する。
- ×e. 不定愁訴
不定愁訴とは、頭が重い、だるい、めまいがするなど、部位や性状がはっきりしない多彩な自覚症状を訴えるが、検査で客観的な異常が見つからないものをいう。自律神経失調症、更年期障害、心身症、うつ病などで目立つ。本例は表情がにこやかで穏やかに多弁であり、はっきりしない身体症状を繰り返し訴える記載はない。むしろ転倒後の痛みという具体的な身体的原因がある。
せん妄の要点
・定義:急性に発症し、注意と意識の障害を中心に認知機能の障害(見当識障害、記憶障害、知覚障害など)を伴い、1日のうちでも症状が変動する状態である。 ・病型:興奮・幻覚が目立つ過活動型、ぼんやりして反応が乏しい低活動型、両者が混ざる混合型がある。低活動型はうつ病や認知症の悪化と誤認されやすい。 ・発症要因:準備因子(高齢、認知症、脳血管障害の既往など)、直接因子(感染症、脱水、電解質異常、低酸素、薬物〈抗コリン薬、ベンゾジアゼピン系薬など〉、手術など)、誘発因子(疼痛、身体拘束、環境変化、睡眠障害、感覚遮断など)に分けて考える。 ・対応:まず原因の検索と除去を行い、環境調整(照明、時計やカレンダーの設置、家族の付き添い)、疼痛管理を行う。必要に応じて少量の抗精神病薬を用いる。ベンゾジアゼピン系薬はせん妄を悪化させることがあるため、単独では原則として避ける。
認知症とせん妄の違い
・発症:認知症は緩徐(月〜年単位)、せん妄は急激(時間〜日単位) ・意識:認知症は原則として清明、せん妄は混濁・変容する ・経過:認知症は慢性・持続的、せん妄は日内変動が大きく夜間に悪化しやすい ・可逆性:せん妄は原因を除けば改善しうる 両者はしばしば合併し、認知症はせん妄の最大の危険因子の一つである。
本例で注意したい点
転倒後に痛みで1日中動けなかった高齢女性では、大腿骨近位部骨折などの外傷も考えておく必要がある。痛みそのものがせん妄の誘因となるため、身体的原因の評価と疼痛の管理はせん妄対策の一部である。
Alzheimer型認知症の精神・行動症状
記憶障害、見当識障害、実行機能障害などの中核症状に加え、物盗られ妄想、徘徊、興奮、抑うつ、不安などの行動・心理症状(BPSD:behavioral and psychological symptoms of dementia)がみられる。物盗られ妄想は、身近な介護者(家族)が対象になりやすく、Alzheimer型認知症で特に頻度が高い。また、話を合わせてその場を取り繕う(取り繕い反応)ため、表面的には愛想よく見えることがある。
POINT
・慢性に進行する記憶障害+見当識障害+物盗られ妄想+びまん性脳萎縮 → Alzheimer型認知症を考える。 ・急性発症、夜間の錯覚・幻覚と興奮、翌日の健忘 → せん妄。認知症・高齢・疼痛・臥床はせん妄の要因である。 ・両価性や自我障害(作為体験など)は統合失調症の症候であり、認知症の症候ではない。 ・不定愁訴は客観的所見に乏しい多彩な身体的訴えであり、心身症や更年期障害などで目立つ。
