有機溶媒臭が漂う救急外来―有機リン中毒で最初に守るべきは「自分たち」
第108回医師国家試験 E問題 第55問
国試問題にチャレンジ
20歳の男性。意識障害のため搬入された。約1時間前に自殺目的で有機リン系殺虫剤を約500 mL飲んだことが判明している。救急隊からの連絡によると,救急車内での意識レベルはJCSⅢ-300。体温36.0℃。脈拍80/分,整。血圧110/72 mmHg。呼吸数10/分。SpO2 100%(リザーバー付マスク10 L/分酸素投与下)。救急外来への搬入時に嘔吐し,尿失禁と便失禁とがあり,有機溶媒臭が漂っている。 まず行うべき対応はどれか。
- a.除染
- b.血圧測定
- c.拮抗薬投与
- d.制吐薬投与
- e.緊急血液透析
対話形式の解説
ドクター
医学生
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医学生
ドクター
医学生
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ドクターまとめ
有機リン系殺虫剤を服用した患者では、吐物や失禁物、衣服に付着した薬剤や揮発した有機溶媒を介して医療者に二次被害が生じうるため、まず個人防護具を装着し、汚染衣類の除去と皮膚洗浄による除染を行います。そのうえで気道・呼吸・循環を安定化し、アトロピン(気道分泌が乾くまで投与)とプラリドキシム(エイジング前の早期投与)による拮抗薬治療を進めます。嘔吐はムスカリン作用によるもので制吐薬の適応ではなく、脂溶性で分布容積の大きい有機リンは血液透析でほとんど除去できません。回復期にも中間期症候群による呼吸筋麻痺に注意が必要です。「まず安全確保、次にABC、そして拮抗薬」という順序は、中毒診療だけでなく救急医療全般に通じる基本原則です。
解答・解説
正解はaです
所見の整理
・約1時間前に有機リン系殺虫剤を約500 mLと大量に服用したことが判明している。 ・意識レベルJCS Ⅲ-300(痛み刺激に全く反応しない)と深昏睡で、呼吸数10/分と呼吸抑制傾向がある。 ・搬入時に嘔吐、尿失禁、便失禁がみられる。これらは有機リンによるムスカリン様症状(副交感神経の過剰刺激症状)と考えられる。 ・有機溶媒臭が漂っている。有機リン系殺虫剤の多くは有機溶媒に溶かした乳剤であり、吐物・排泄物・衣服を介して周囲が汚染されていることを示す。
診断
服用歴と症状から重症の有機リン中毒であり、鑑別を要する余地はほとんどない。有機リンはアセチルコリンエステラーゼ(アセチルコリンを分解する酵素)を阻害し、神経終末にアセチルコリンが蓄積することでムスカリン様・ニコチン様・中枢神経症状を起こす。
まず行うべきことの考え方
中毒患者の診療では、傷病者を救命すると同時に、医療者や他の患者に被害を広げないことが最優先の前提となる。有機リンは皮膚・粘膜や気道からも吸収されるため、嘔吐物や失禁による汚染物に素手で触れたり、揮発した溶媒を吸い込んだりすると、医療者が二次被害を受けうる(1995年の地下鉄サリン事件でも、有機リン系の神経剤サリンにより医療従事者の二次被害が生じた)。 したがって、医療者は手袋・ガウン・マスク・ゴーグルなどの個人防護具(PPE)を装着し、患者の汚染した衣類を脱がせてビニール袋などに密閉し、皮膚や毛髪を石けんと水で洗浄する除染をまず行う。除染によって患者自身の皮膚からの吸収も止めることができる。 安全を確保したうえで、直ちに気道・呼吸・循環(ABC)の評価と安定化(本例では深昏睡・呼吸抑制があり気管挿管が必要となる可能性が高い)、アトロピンやプラリドキシム(PAM)による拮抗薬治療、状況に応じた消化管除染へと進む。実際の現場ではPPEを着けたスタッフが除染と呼吸循環管理を並行して進めるが、選択肢の中で最初に位置づけられるのは除染である。
選択肢考察
- ○a. 除染
有機リンは皮膚や気道からも吸収されるため、嘔吐物・失禁物・衣服に付着した薬剤や揮発した有機溶媒によって医療者に二次被害が生じうる。PPEを装着して汚染衣類を除去し、体表を洗浄する除染は、医療者と周囲の安全を確保すると同時に、患者の皮膚からのさらなる吸収も防ぐ。すべての診療行為の前提として最初に行う。
- ×b. 血圧測定
バイタルサインの把握は重要で、有機リン中毒では徐脈・低血圧(ムスカリン作用)や頻脈・高血圧(ニコチン作用)など状態が刻々と変化する。しかし、安全確保(PPE装着と除染)の前に患者に接触すれば医療者が汚染されるおそれがある。除染による安全確保を済ませてから、直ちに行うべき評価である。
- ×c. 拮抗薬投与
有機リン中毒の拮抗薬はアトロピン(ムスカリン受容体を遮断し、気道分泌過多・気管支収縮・徐脈を改善する)とプラリドキシム(PAM:リン酸化されたコリンエステラーゼを再賦活する。酵素が不可逆的に変性する『エイジング』の前に投与するほど有効)である。本例でも必須の治療だが、二次被害を防ぐ除染と、気道確保などの呼吸循環管理を優先したうえで速やかに開始する。
- ×d. 制吐薬投与
嘔吐は有機リンのムスカリン作用による症状であり、制吐薬で対処すべきものではない。問題は嘔吐そのものより、意識障害下での誤嚥であり、これには気道確保(気管挿管)で対応する。毒物を体内にとどめる方向の処置である制吐薬の投与は意味がない。
- ×e. 緊急血液透析
有機リンは脂溶性が高く、分布容積が大きく組織に広く移行するため、血液透析ではほとんど除去できず、有機リン中毒は血液浄化法の良い適応ではない。仮に考慮される場面があっても、最初に行う処置ではない。
有機リン中毒の症状
アセチルコリンエステラーゼ阻害によりアセチルコリンが過剰となり、以下の症状が出る。 ・ムスカリン様症状:縮瞳、流涎、流涙、発汗、気道分泌過多、気管支収縮、徐脈、嘔吐・下痢、尿失禁・便失禁。気道分泌過多と気管支収縮による呼吸不全が主な死因となる。 ・ニコチン様症状:筋線維束攣縮(fasciculation)、筋力低下・呼吸筋麻痺、頻脈、高血圧。 ・中枢神経症状:頭痛、不穏、意識障害、けいれん、呼吸中枢抑制。 検査では血清コリンエステラーゼ値が著明に低下する。
経過中の注意
・中間期症候群:急性期症状の改善後、発症後1~4日ごろに近位筋・頸部屈筋・脳神経支配筋・呼吸筋の麻痺が出現することがあり、呼吸不全に注意する。 ・遅発性神経障害:一部の有機リンでは、2~3週後に末梢神経障害(下肢優位の運動障害)が生じることがある。
治療の流れ
1.安全確保:PPE装着、汚染衣類の除去と皮膚洗浄(除染)。 2.呼吸・循環管理:気道分泌が多く意識障害があれば気管挿管・人工呼吸。 3.拮抗薬:アトロピンを気道分泌が乾燥するまで反復・増量投与する(瞳孔ではなく気道分泌の改善を指標とする)。プラリドキシム(PAM)を早期に投与する。 4.消化管除染:服用後早期で気道が確保されていれば胃洗浄や活性炭投与を考慮する。催吐は意識障害・けいれんの危険がある患者で誤嚥を招くため行わない。 5.けいれんにはベンゾジアゼピン系薬を用いる。
中毒診療の基本
急性中毒診療は、①安全確保(二次被害の防止)、②全身管理(気道・呼吸・循環の安定化)、③吸収の阻止(消化管除染など)、④排泄の促進(血液浄化法など)、⑤拮抗薬・解毒薬の投与、が基本である。拮抗薬がある中毒でも、生命維持のための呼吸循環管理は常に最優先される。
POINT
・有機リン中毒の患者では、まずPPEを装着して除染し、医療者の二次被害を防ぐ。 ・次いで気道・呼吸・循環の安定化、アトロピンとPAMによる拮抗薬治療を行う。 ・症状はムスカリン様(縮瞳・分泌亢進・徐脈・嘔吐・失禁)、ニコチン様(線維束攣縮・筋力低下)、中枢神経症状。血清コリンエステラーゼが低下する。 ・有機リンは血液透析で除去されにくい。催吐は行わない。
