腐卵臭の浴室に飛び込むな―硫化水素の現場で医師が最初に伝えるべきひと言
第109回医師国家試験 D問題 第53問
国試問題にチャレンジ
当直中に病院職員から電話があった。「帰宅したら,自宅の浴室に目張りがされており,浴室から卵が腐ったような臭いが漏れ出している。浴室では弟が倒れているようである。119番には通報している」という。 適切な指示はどれか。
- a.すぐ現場を離れる。
- b.浴室の換気扇を回す。
- c.弟の心肺蘇生を始める。
- d.弟を浴室から連れ出す。
- e.臭いの発生源を確認する。
対話形式の解説
ドクター
医学生
ドクター
医学生
ドクター
医学生
ドクター
医学生
ドクター
医学生
ドクター
医学生
ドクター
医学生
ドクター
医学生
ドクター
医学生
ドクター
医学生
ドクターまとめ
目張りされた浴室から腐卵臭が漏れ、中で人が倒れている状況では、硫黄含有入浴剤と酸性洗浄剤の混合による硫化水素自殺企図を考えます。硫化水素は高濃度では数呼吸で意識を失わせ、空気より重く低所に溜まり、さらに嗅覚を麻痺させるため臭いが弱くなっても安全とはいえません。このような二次災害の危険がある現場では救助者の安全確保が最優先であり、通報済みなら一般人はただちに現場を離れて安全な場所で消防隊を待つべきで、救出・心肺蘇生・換気・発生源の確認は行わせません。機序はチトクロムcオキシダーゼ阻害による細胞内窒息でシアンと共通し、治療は高濃度酸素投与が基本で、搬送・受け入れ時の二次汚染対策や遅発性肺水腫への注意も必要です。「まず自分の安全」というBLSの原則を、電話での指示という形で実践できることが問われる問題です。
解答・解説
正解はaです
状況の整理
電話の内容から読み取れる情報は次の3点である。 ①浴室のドアや隙間に目張りがされている:密閉空間でガスを充満させようとした形跡であり、自殺企図を強く疑わせる。 ②卵が腐ったような臭い(腐卵臭)が漏れ出している:腐卵臭は硫化水素(H2S)に特徴的である。 ③浴室内で弟が倒れているようであり、119番通報はすでに済んでいる。
何が起きていると考えるか
一般家庭で自殺に用いられる有毒ガスは、主に硫化水素と一酸化炭素(練炭・七輪など)である。一酸化炭素は無色・無臭・無刺激性であり、臭いで気づくことはない。一方、硫化水素は低濃度でも強い腐卵臭を放つ。したがって本例は、市販の硫黄含有入浴剤と酸性のトイレ用洗浄剤(塩酸含有)などを混ぜて硫化水素を発生させた自殺企図が最も考えられる。
設問の考え方
硫化水素は極めて毒性が強く、高濃度では数呼吸で意識を失い死に至りうる。さらに空気より重いため浴室の床付近や周囲の低い場所に溜まりやすい。臭いが漏れているということは、浴室外にもすでにガスが及んでいる可能性がある。 このような「二次災害」の危険がある現場では、救助の原則は「まず救助者自身の安全確保」である。防護具も呼吸器も持たない一般人が救助しようとすれば、自分も倒れて犠牲者が増えるだけになる。通報はすでに済んでいるので、電話を受けた医師が指示すべきことは、ただちにその場(家屋)から離れ、風上の屋外など安全な場所で消防隊の到着を待つことである。救出は、自給式呼吸器と防護服を装備した消防・救助隊に任せる。
選択肢考察
- ○a. すぐ現場を離れる。
硫化水素が充満した浴室の近くにとどまるだけでも、通報者自身が中毒になる危険がある。119番通報は済んでおり、通報者にできる安全な救命行為はほかにない。したがって、ただちに家屋から出て屋外の風上側など安全な場所へ移動し、消防隊の到着を待つよう指示するのが最も適切である。到着した隊員に、状況(目張り、腐卵臭、倒れている人がいること)を伝えられるようにしておくとよい。可能であれば玄関先などに連絡先を残しておくと、隊員との連携に役立つ。
- ×b. 浴室の換気扇を回す。
換気扇を回すためには浴室に近づく(場合によっては扉を開けて中に入る)必要があり、その時点で通報者が高濃度のガスを吸い込む危険がある。また、浴室内のガスが換気口から屋外や隣家・共用部に排出され、周囲の住民にまで被害が広がるおそれがある。スイッチ操作の火花で引火する可能性も否定できない(硫化水素は可燃性ガスである)。一般人に指示すべき行動ではない。
- ×c. 弟の心肺蘇生を始める。
心肺蘇生を行うには汚染された浴室に入る必要があり、救助者自身が数呼吸で意識を失うおそれがある。また、硫化水素中毒の傷病者に口対口人工呼吸を行い、救助者が中毒に陥った事例も報告されている。ガスが充満した現場での一般人による蘇生は行ってはならず、防護装備をもつ救助隊が傷病者を安全な場所へ搬出してから処置を行う。
- ×d. 弟を浴室から連れ出す。
弟を救いたい気持ちは当然であるが、防護具なしで浴室に入れば救助者も倒れ、犠牲者が二人になる。硫化水素による事故では、倒れた人を助けようとした人が次々に倒れる連鎖的な被害がしばしば起きている。救出は自給式空気呼吸器と防護服を着用した消防・救助隊に任せなければならない。
- ×e. 臭いの発生源を確認する。
発生源を確かめるには浴室に近づく必要があり、通報者を危険にさらすだけである。しかも一般人が発生源を確認したところで現場での処置に役立つことはほとんどない。原因物質の特定や除去は、到着した消防隊が安全を確保したうえで行う。
硫化水素(H2S)の性質
・無色で、低濃度では特有の腐卵臭をもつ気体である。空気より重く(比重約1.2)、浴室・マンホール・くぼ地など低い場所に滞留しやすい。可燃性でもある。 ・濃度が上がると嗅覚神経が麻痺し(おおむね100〜150 ppm前後から)、臭いを感じなくなる。「臭いがしなくなった=安全」ではない点が重要である。
濃度と症状のおおよその目安
・ごく低濃度(0.1 ppm未満):腐卵臭を感じる。 ・数十〜百数十ppm:眼・鼻・喉の刺激、流涙、結膜炎、嗅覚の麻痺。 ・150〜300 ppm程度:気管支炎、肺水腫などの呼吸器障害。 ・500 ppm程度以上:意識障害、呼吸停止。さらに高濃度では数呼吸で意識を失い(ノックダウン)、短時間で死亡しうる。
中毒の機序
硫化水素はミトコンドリアの電子伝達系の終末酵素であるチトクロム c オキシダーゼの三価鉄(Fe3+)に結合してこれを阻害し、細胞が酸素を利用できなくする(細胞内窒息)。この点はシアン化合物と共通する。肺から速やかに吸収される。
発生しやすい場面
・家庭:硫黄含有入浴剤と酸性洗浄剤を混ぜる自殺企図。浴室・トイレ・自家用車内に目張りをして行われることが多い。 ・職場・屋外:下水道・マンホール・汚水槽などで有機物の腐敗により発生、石油精製工場、廃棄物処理、火山・温泉地帯など。
救助・治療の流れ
・現場:救助者の安全確保が最優先。一般人は現場から離れ、救出は防護装備(自給式空気呼吸器など)を着用した消防・救助隊が行う。大規模な事案では立入禁止区域を設定する(ゾーニング)。 ・搬送中:呼吸困難の有無にかかわらず高濃度(100%)酸素を投与し、衣服に付着したガスによる二次汚染を防ぐため車内を換気する。病院到着後は速やかに脱衣させる(乾式除染)。 ・病院:動脈血ガス分析、胸部エックス線撮影で重症度を評価し、必要なら気管挿管・人工呼吸管理を行う。遅れて肺水腫が出現することがあるため、軽症に見えても数時間は経過観察する。 ・特異的治療として亜硝酸塩(亜硝酸アミル、亜硝酸ナトリウム)でメトヘモグロビンを作り、硫化物イオンを結合させる方法が挙げられるが、効果は確立していない。高圧酸素療法が試みられることもある。
POINT
・腐卵臭+目張りされた密室で倒れている人 → 硫化水素による自殺企図を考える。 ・一酸化炭素は無臭、硫化水素は腐卵臭。ただし高濃度では嗅覚が麻痺して臭いを感じなくなる。 ・有毒ガスの現場では救助者の安全確保が最優先。一般人は救出・心肺蘇生・換気・原因確認を行わず、ただちに現場を離れて消防隊を待つ。 ・硫化水素は空気より重く低所に溜まる。換気扇で屋外へ排出すると周囲へ被害が拡大しうる。 ・機序はチトクロム c オキシダーゼ阻害による細胞内窒息(シアンと同様)。
