20歳以降の記憶が消えた朝―検査がすべて正常な「健忘」の正体
第120回医師国家試験 A問題 第36問
国試問題にチャレンジ
45歳の男性。記憶がないことを主訴に妻とともに来院した。妻によると,昨日までは特に変わったこともなく,今朝も普段通りに出勤したという。午前10時ごろ,会社とは反対の方向にあるA駅で立ちすくんでいるところを駅員に保護され,所持していた運転免許証から住所が特定され妻が迎えに行ったという。妻によると既往歴と家族歴に特記すべきことはないが,最近残業が多く,会社でミスが多いと悩んでいたという。意識は清明であるが,20歳ごろ以降の記憶がないという。改訂長谷川式簡易知能評価スケールは30点(30点満点)。血液所見,血液生化学所見,頭部単純MRI,脳波検査および脳脊髄液検査で特記すべきことはなかった。 診断はどれか。
- a.認知症
- b.統合失調症
- c.解離性障害〈解離症〉
- d.境界性パーソナリティ症
- e.心的外傷後ストレス障害
対話形式の解説
ドクター
医学生
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ドクターまとめ
心理的ストレスを背景に突然、自分の生活史などの自伝的記憶が想起できなくなり、目的のない移動(遁走)を伴う一方、意識は清明で認知機能検査は正常、画像・脳波・髄液検査で器質的異常がない場合は、遁走を伴う解離性健忘、すなわち解離症を考えます。器質性の健忘では前向性健忘が目立ち認知機能検査の成績も低下するのが普通で、新しく覚える力が保たれたまま自伝的記憶だけが失われるというズレが心因性を示す重要な手がかりです。認知症は緩徐進行で近時記憶から障害され、統合失調症は幻覚・妄想が中心、PTSDは心的外傷的出来事と再体験・回避・過覚醒、境界性パーソナリティ症は持続的な対人関係・感情の不安定さが軸であり、いずれも本例とは合いません。一過性全健忘やKorsakoff症候群などの器質性健忘を除外したうえで、安全確保と支持的精神療法、ストレスへの対処を行うと記憶は回復することが多いです。「何が失われ、何が保たれているか」を見極める視点は、記憶障害の鑑別全般に役立ちます。
解答・解説
正解はcです
所見の整理
・45歳男性。前日までは変わった様子がなく、当日朝もいつも通りに家を出ている。発症は突然である。 ・出勤するはずが会社と反対方向のA駅で立ちすくんでいるところを保護された。本人の意図とは無関係に、普段と異なる場所へ移動している(遁走を示唆)。 ・背景として、最近残業が多く、仕事上のミスに悩んでいたという心理的ストレスがある。 ・意識は清明で、「20歳ごろ以降の記憶がない」と訴える。約25年分にわたる自分の生活史(自伝的記憶、エピソード記憶のうち自分に関するもの)がまとまって想起できない逆行性健忘である。 ・改訂長谷川式簡易知能評価スケール(HDS-R)は30点満点。見当識、即時記憶、遅延再生(新たに覚えたことを数分後に思い出す能力)、計算などの認知機能は保たれている。 ・血液検査、頭部MRI、脳波、脳脊髄液検査に異常がない。脳血管障害、脳炎、てんかん、頭部外傷、代謝性疾患などの器質的原因は否定的である。
診断への考え方
記憶障害を診るときは、まず器質性(脳の病変や身体疾患による)か、心因性かを区別する。器質性の健忘では、新しいことを覚えられない前向性健忘が目立ち、認知機能検査の成績も低下するのが普通である。一方、本症例は新しい記憶を保持する力が保たれているのに、ある時点以降の自伝的記憶だけが抜け落ちており、器質性の健忘としては説明しにくい。さらに、検査で器質的異常がなく、心理的ストレスを背景に突然発症し、目的のない移動(遁走)を伴っていることから、解離性健忘(解離性遁走を伴う)、すなわち解離性障害〈解離症〉と診断できる。 解離とは、本来統合されている意識・記憶・自己同一性・知覚・運動などの機能が一時的にまとまりを失う状態であり、耐え難いストレスから心を守る反応として生じると考えられている。
選択肢考察
- ×a. 認知症
認知症は、いったん正常に発達した認知機能が後天的な脳の障害によって持続的に低下し、日常生活に支障をきたす状態である。通常は月〜年単位で徐々に進行し、近時記憶(最近の出来事の記憶)から障害されやすい。本症例は前日まで異常がない突然の発症であり、HDS-Rは満点(20点以下で認知症を疑う)、頭部MRIなどにも異常がない。また、近時記憶が保たれたまま20歳以降の自伝的記憶だけが失われるという障害のパターンも認知症とは合わない。
- ×b. 統合失調症
統合失調症は、幻覚(特に幻聴)・妄想・まとまりのない会話や行動といった陽性症状と、感情の平板化・意欲低下などの陰性症状を特徴とし、好発年齢は思春期〜30歳代前半である。本症例ではこうした精神病症状の記載がなく、主症状は限局した記憶の欠落であるため、統合失調症では説明できない。
- ○c. 解離性障害〈解離症〉
仕事上のストレスを背景に突然、20歳ごろ以降の自伝的記憶を想起できなくなり(解離性健忘)、出勤途中に会社とは反対方向の駅へ移動して保護された(解離性遁走)。意識は清明で、HDS-Rは満点、頭部MRI・脳波・髄液検査などで器質的原因は否定されている。心理的要因による記憶の解離として一貫して説明でき、解離性障害〈解離症〉、特に遁走を伴う解離性健忘に合致する。
- ×d. 境界性パーソナリティ症
境界性パーソナリティ症は、青年期〜成人早期から持続する、対人関係・自己像・感情の不安定さと著しい衝動性を特徴とする。見捨てられることへの強い不安、理想化と過小評価の間を揺れ動く対人関係、自傷行為や自殺企図の反復、慢性的な空虚感などがみられる。強いストレス下で一過性の解離症状を伴うことはあるが、本症例ではそうした長期にわたるパーソナリティの問題を示す情報がなく、該当しない。
- ×e. 心的外傷後ストレス障害
心的外傷後ストレス障害(PTSD)は、生命の危険や重傷、性暴力などの心的外傷的出来事に直接さらされたり目撃したりした後に、侵入症状(フラッシュバック、悪夢などの再体験)、回避、認知と気分の否定的変化、過覚醒が1か月以上続く病態である。本症例のストレスは残業や仕事上のミスであり、心的外傷的出来事とはいえず、再体験・回避・過覚醒などの症状もみられない。
解離症(DSM-5-TR)の主な病型
・解離性健忘:重要な自伝的情報、通常は心的外傷的またはストレスの強い出来事に関する情報を想起できない。通常の物忘れでは説明できない程度である。限局性(特定の期間)、選択的(出来事の一部)、全般性(生活史全体や自己同一性まで)などの型がある。 ・解離性遁走:目的をもったようにみえる旅や、当てもない放浪を伴うもの。DSM-5以降は独立した診断ではなく、解離性健忘の特定用語(「解離性遁走を伴う」)として扱われる。ICD-11でも解離性健忘の下位分類とされている。 ・解離性同一症:2つ以上の異なるパーソナリティ状態が存在し、それぞれの間で健忘を伴う(かつての多重人格障害)。 ・離人感・現実感消失症:自分の体や心から切り離されている感覚(離人感)や、周囲が非現実的に感じられる感覚(現実感消失)が持続・反復する。現実検討は保たれる。 ・なお、心因性の運動・感覚症状(心因性の麻痺、失声、けいれん様発作など)は、DSM-5-TRでは身体症状症および関連症群の「機能性神経症状症(変換症)」に分類される。
解離性健忘の特徴と対応
・強いストレスや心的外傷を契機に発症することが多い。 ・健忘は自伝的記憶に限局し、言語・計算・一般知識などの意味記憶や手続き記憶、新しく覚える能力は保たれることが多い。 ・まず器質的疾患(脳血管障害、脳炎、てんかん、頭部外傷、薬物・アルコール、低血糖など)を除外することが重要である。 ・治療は安全の確保と支持的精神療法、背景にあるストレスへの対処が中心であり、記憶は自然に、あるいは治療の経過中に回復することが多い。
器質性健忘との鑑別の目安
・一過性全健忘:中高年に突然起こる。主体は前向性健忘で、同じ質問を繰り返すのが特徴。自分の名前や身元などの自己同一性は保たれ、通常24時間以内に回復する。 ・Korsakoff症候群(ビタミンB1欠乏):前向性健忘、逆行性健忘、作話、見当識障害。 ・器質性健忘では、自分の氏名・生活史のような自伝的な記憶が全く失われる一方で新しい記憶は正常、という本症例のような解離は起こりにくい。
POINT
・突然発症の自伝的記憶の欠落(逆行性健忘)+目的のない移動(遁走)+心理的ストレス+器質的異常なし → 解離性健忘(遁走を伴う)=解離症。 ・意識清明で、HDS-Rなど一般的な認知機能は保たれる点が認知症などの器質性健忘との鑑別点。 ・解離性遁走は、DSM-5以降は解離性健忘の特定用語として扱われる。 ・診断の前提として、MRI・脳波・髄液検査などで器質的疾患を除外する。 ・PTSDは心的外傷的出来事と再体験・回避・過覚醒、境界性パーソナリティ症は持続的な対人関係・感情・衝動性の不安定さが軸。
